100分 de『偶然性・アイロニー・連帯』
哲学とは『人類の会話』が途絶えることのないよう守るための学問である」というものになります。これは、ローティが自身初の単著『哲学と自然の鏡』(一九七九年) で述べていることをテーゼ化したものですが、これがローティの哲学全体を貫くテーゼ 真理に到達することを目指してきました。到達を目指すということは、言い換えれば、いつかは探究を終わらせることを目指すのが哲学の営みだということになります。探求が終われば、それ以上の議論や会話は不要になります。しかし、それでいいのかと問うたのがローティ デカルトは、それまでの哲学のように「普遍とは何か」を問うのではなく、「われわれはどうすれば普遍的なものを客観的に認識できるのか」を問うことに軸足を移しました。「存在」から「認識」へと哲学の主題をスライドさせた。この認識論を発展させ、人間は何が認識できて何が認識できないのか、理性の限界はどこにあるのかを確定しようとしたのが、近代のカント(*5) です。 現代に入ると、脳科学を含む科学の飛躍的発展により、認識という主題は徐々に哲学から実証的な科学のほうへと移っていきました。そうして哲学に残されたテーマが言語やコミュニケーション
言語を具体的かつ論理的に分析することを通じて哲学的な問いに答えよう。論理を駆使することで「科学としての哲学」を実践しよう。そう考えた人たちにより、特に十九世紀末~二十世紀の英語圏で盛んに取り組まれたのが、分析哲学(*6)(言語哲学)と呼ばれる哲学です。 デカルトは、あらゆる知識や感覚は確かなものとは言えない、しかし「その確かさを疑っている私」だけは確かに存在すると言えると考えました。そしてその「私」とは「心」であると結論します。心にはさまざまな「観念」が現れます。一方、こうした働きをする「心」とはまったく別に存在するのが、身体を含めた「物体」です。これを心身二元論(*8) といいます。ここから、確実な存在である私の「心」は、いかにして外界の「物体」を認識するかという、認識論の問いが生まれるわけです。 直観は真理を鏡のように映し取ったものではなく、歴史のなかにおいて形成された見方だと主張します。『哲学と自然の鏡』の第一部第一章が「心の発明」と題されているように、ローティは、デカルトが言う「心」とはデカルトの発明なのだとまで述べています。デカルトという天才が個人の関心のなかから見つけてきたものだ。それを語る彼のことばが魅力的だったがゆえに、みんなが使うようになったのだ。だから心とはデカルトによるひとつの発明なのだ、というわけ 地球人は自分には感覚があると思っているが、実はないのだ」と言う対蹠人の 唯物論 者であり、他方では「対蹠人には感覚があるのに、そのことに彼らは気づいていない」と言う地球人の哲学者である。経験的探究のあらゆる成果(脳の交換等)がどちらの側にも等しく味方しうると思われる時に、この 袋小路 を抜け出る道はあるのだろうか。ローティは、この差異は原理的に調停できないと結論します。しかし、ここで肝心なのは、どちらかがどちらかを「わかる」ことはありえないが、「言い換え」はできているということです。「なるほど、あなたのC繊維の刺激について、私はそれを『痛い』と言っている。それが同じ状態を指しているのかは確実にはわからないけれど、とりあえず私が『痛い』と言っていることについて、あなたには代替できることばがあって、言い換えができるのです ローティは、デカルトの「心」はいつの時代においても万人が直観的に受け入れるべき「本質」ではなく、ある歴史的条件のなかで発明されたものであることを示します。私たちは、言い換えの法則が共有できれば「心」と言わなくても何も困らない。別の言い方をするなら、私たちは「心」という概念がなくても成り立つ言語習慣を学ぶことができるということ
哲学が相手にしているのはひとえに言語実践の問題なのだ。哲学は永久に答えが出ないような話をするのではなく、具体的なことばづかいの問題にこそ固執すべきなのだ。これが、この思考実験を通じて端的に表されているローティの主張です。 会話をいかにして続かせることができるのか
『哲学と自然の鏡』を通してローティが提唱したのは「歴史主義」です。歴史主義とは、世界には永遠不変の真理や究極の本質などというものはなく、それはそのときどきのことばによってつくられる(歴史のなかで変わりうる)ものだとする主張です。 尺度を探し求めようとする誘惑は、世界あるいは人間の自己が、本有的特性、つまり本質をもっていると考えようとする、もっと一般的な誘惑の一種である。つまりそれは、私たちが世界や自分自身を記述する際に通常使用している多くの言語のなかで、ある一つの言語を特権化しようとする誘惑の所産なのだ。 ことばを使うことによって自己を創造している。ことばというものは、単に特定の目的のために使いこなされる道具であるというよりは、それを使うことによって目的自体を設定し、使い手の在り方を表現し、乗っていると思ったら乗っ取られてしまう、そんな極めて特殊な「道具」です。そして、それこそがことばの力だとローティは考えているの したがって、「人が自分という存在の原因の根拠をしっかりと 辿る唯一の方法は、自分の原因についての物語を新しい言語で語ることなのだ」と述べています。
道徳性を私たちのなかにある神的な部分の声だと考えることをやめ、その代わりに共同体のメンバー、共通の言語の話し手としての私たち自身の声であると考えることができる場合にのみ、私たちは「道徳性」という考えを維持することができる。人間に共通して備わる本質的なものとして道徳を考えるのではなく、それはあくまで特定の共同体における内輪の約束にすぎないと考える場合においてのみ、道徳性は維持されるとローティは言っています
自分の発するボッキャブラリーに自身がなかったり、偶然性であることを認めていること
私のいうリベラルなユートピアの市民とは、道徳上の 熟考 をする際の自分の言語が、したがって自分の良心が、さらには自分の共同体が、偶然性を帯びているという感覚をもつ人びとなのである。 リベラルなユートピアの市民に必要なのが、「自己の偶然性」の認識です。一緒にやっていく人同士のあいだでは、自分が相手に影響されたり、相手が自分に影響されたりする可能性があると認識する。つまり、それぞれが変わりうる存在であり、必然に固執するのではなく偶然に開かれていることを確認する。 つまり、「必然的な本質を共有しているわれわれだから、わかるはずだ」ではなく、むしろ本質など持たない、互いに偶然的な存在であるからこそ、何かしら一緒にやっていくことができるという可能性が出てくる。ここが、偶然性から連帯の契機が出てくるという、このあとの議論につながる部分です。
ロマンティック・アイロニー(ロマン主義的イロニー)とは、十八世紀末~十九世紀はじめのドイツ・ロマン派(*1) の批評家シュレーゲル(*2) らが用いたことばで、芸術家が自らの作品を高みから見下ろし、反省し、さらなる創造につなげていく態度を指します。作品の完成度はバッチリだ」と無反省に終わるのではなく、常に別様の表現がありうるのではないかと自らを疑う。それによって次の創造の可能性を開く。これがロマンティック・アイロニーです 人間は誰しも、自らの行為、信念、生活を正当化するために使用する一連の言葉をたずさえている。私たちはこうした言葉を用いて、友人への賞賛や敵への 軽蔑、長期的な計画、とても根深い自己疑念、とても崇高な希望を明確に述べる。こうした言葉を用いて、時に先を見越しつつ、時に振り返りつつ、人生の物語を語る。このような言葉を、その人の「 終極の語彙 ファイナルボッキャブラリー」と呼んでおく 終極の語彙の大半を占めるのはたいていの場合、「キリスト」「イングランド」「革命」「進歩的」といった「地域特有の性格が強い用語」だと指摘 アイロニストは「たえず疑問に思っている」。アイロニーの対極にあるのは 常識 である。私たちの社会生活に結びつく常識と、私的な生活に結びつくアイロニーという構図です。 公共的なものと私的なものとを統一する理論への要求を 棄て去り、自己創造の要求と人間の連帯の要求とを、互いに同等ではあるが永遠に共約不可能なものとみなすことに満足すれば、いったいどういうことになるのかを明らかにすることが、本書の試みである。
ユダヤ系の政治哲学者ジュディス・シュクラー(*3) からその定義を借りて、リベラリズムの思想とは「何が善であるか」の一致ではなく、「何が悪であるか」の一致に端を発しているとし、「恐怖に 対峙 するリベラリズム」の重要性を論じました。 アイロニストの定義はさきほど見たように、自分にとって最も重要な信念や欲求が、偶然の産物だということを認められる人物です。
リベラルなユートピア」ということばが出てきました。それは、社会正義として残酷さを最小化することと、私的なアイロニズムを追求することを両立するリベラル・アイロニストが希望する社会のあり方 公共空間としての「バザール」と、私的な空間としての「クラブ」が対比されています。生活のために「バザール」で生きていかざるをえない私たちにとって、一日を終えて退避できるような「クラブ」もまた必要なのだ。そんなことが伝わってくる挿話 公共空間としてのバザールの「しんどさ」と、私的空間としてのクラブの「危うさ」が、ともに描き出されている
昼間バザールで会った人間についての、悪口で済めばまだいいところ、場合によっては差別的な言動や、公共空間ではとても言えないようなことばづかいが飛び交うかもしれない。そういう危うさを秘めた場所でもあるのがクラブ
ただひとつの公共空間であるバザールのまわりを、無数の私的空間としての会員制クラブがとりまいている、そのようなものになるでしょう。バザールとクラブは空間的に分かれてはいるが、地続きで隣接している。
なぜ本質を求めたり、公私を統一しようとしたりする要求は棄て去るべきなのか。ローティの主張にしたがって述べれば、それらはいずれも人々の会話を終わらせることを目指す営みだからです。
強い者が弱い者を一方的に黙らせるという事態が起きるでしょう。こうした事態はともに、リベラリズムが唯一避けるべきとした「残酷さ」にほかなりません。 一人の人間のなかには「正しい建前」と「正しくないかもしれない本音」がある、それらは直接的には矛盾するケースがあるけれど、それでもその人のなかで併存していてもいいのだ、というのがこの比喩の最大のポイント
私たちアイロニストにとって、 或 る終極の語彙の批評としての役目を果たしうるのは、別の終極の語彙をおいてほかにはない。再記述に対しては、再-再-再記述する以外に解答するすべは
ボキャブラリー同士は、どちらがより真に近いかという意味で優劣をつけられるものではない。つまり、人間や社会もそういうものだ、ということです。
社会は具体的な姿形をとったボキャブラリーである」ということは、どんなことばづかいをするかによって人間は変わる、という帰結をもたらします。ことばづかいが変われば人間は変わるし、流通することばが変われば社会も変わるのです。ローティが会話や語彙にこだわる背景には、こうした認識がある ローティは、物事の本質や知識の基礎にさかのぼって探究することを目指すのではなく、さかのぼるのをやめたらどうなるか、を考え続けた哲学者
「プラグマティズム」の思想伝統から来ています。プラグマティズムは、実践的なことや、実際的なことに着目しようという哲学です。「プラグマ」はギリシャ語で「実践」や「事実」を意味 ある概念やことばがあったとき、それは現実のなかでどのような役割を果たすのか、それを使うことでどんな違いが生まれるのか、を考えるのがプラグマティズムの発想です。本質にさかのぼる探究ではなく、それを使ったらどうなるのかという帰結に着目する
何をよいと思い、何を悪いと思うかについての個々人の価値観が「善」であるのに対し、「正義」とは、競合しうる善の構想どうしを調停し、合意に至った状態において実現するものであり、そのための一連の手続きだと提唱した
これはまさに文化政治です。どんなことばを使うのかに関わる、社会的な規範をめぐる実践を、私たちは敏感にであれ鈍感にであれ、実際に行っています。「再記述」の持つ力についても、実は体感としてわかっている リン・ティレル(*4) です。彼女は二〇一二年の論文「虐殺の言語ゲーム」において、一九九四年のルワンダ内戦(*5) で起きた大量虐殺を取り上げ、言語共同体におけることばづかいが変わることがジェノサイドにまで行き着いたことを具体的に分析・検討した 1.「われわれ/やつら」の線引きを行う……これは「フツ」に対する「ツチ」のように、ターゲットとなる集団を「われわれ」から切り離すことばづかい 2. 本質主義……「われわれ」と「やつら」の線引きに加え、この線引きは本質的なものであり改訂不可能だとします。1.と2.によって達成されるのが、ターゲットとなる集団の「非-人間化」です。やつらは人間ではない。なぜなら人間なら本質を持っているはずであり、それを持っていないやつらはやはり人間ではないの
3. 社会的に定着している……「ゴキブリを駆除する」「ヘビの首を切り落とす」の例で見たように、もともと社会的に定着していた規範に関わることばづかいであることも特徴
4. 行動を喚起する……最後に、それが特定の行動を喚起することば
ルワンダでは直接的な「殺せ」という 扇動 はあまりなかったと言われています。虐殺を呼びかけたラジオ局であるフツ系の「千の丘ラジオ」でも、それは「ゴキブリを駆除しよう」といった一見カジュアルなことばとして呼びかけられていた。
人権、理性、感情」と題された講演です。そこでローティは、人権という概念は実は紛争の抑止や解決に役に立っていないという、非常にショッキングなことを言っている。
ローティが問題にしているのは、ティレルも指摘した本質主義です。人間に本質というものがあるとすれば、それを持っていない相手は人間ではないということになり、「われわれ」と「やつら」のあいだに線引き 人権主義者が言うように「人間には本質的に人権が付与されている」と考えるのならば、 翻って「人間でないものには人権がない」ということにつながる リベラル・アイロニスト」と「アイロニストでないリベラル」の違いとして描いています。後者のことをローティは「リベラルな 形而上学者」と言い、この立場にある人は、のちに彼が批判する人権の本質主義を採っている
リベラルな形而上学者は、 優しい者でありたいという 私たちの 願い が、ある論拠によって支えられるものであって欲しいと思う。
人権という「本質」を基盤にするのではなく、残酷さを減らすというリベラルの、したがって「公共的な目標」のために、紐帯を結ぶ。これがリベラル・アイロニストのあり方だとローティは説く
ローティは、連帯とはそのようなものとして「発見される」のではないという。そうではなく、連帯は「小さき断片」を手がかりに「構築され」るとローティは言っています。小さな共感や、一人ひとり個別の人間に対しての同情やシンパシーといったものを手がかりにしてつくっていかざるをえないということ
同じ人間なのだから連帯しなければ」が一般的によく言われることだと思います。一方で、「私たちは同じ本質を共有する人間だ」という幻想を、むしろ危険でさえあるとして打ち棄てたのが、ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』
どうやって連帯の可能性を探っていくのか。最後に残る課題はそれです。言い換えれば、どうすれば私たちは「残酷さ」に対する感性を 磨くことができるのか。共感を育むことができる ローティはその手がかりをフィクションやエスノグラフィ、ジャーナリズムに求めます。とりわけフィクションには、「正しくなさ」を内側から描きうるという意味で、そこに可能性を見出しているの
理論ではなく、感情に訴える文芸や報道になしうるもの。ローティはのちにそれを「感情教育」と呼んでいる 「人間は他の動物よりも〔知性や尊厳をもつと言うのではなく〕 はるかによく感情を理解 しあう ことができる。」〔と言うべきです。……そうすれば〕 自分たちのエネルギーを感情の操作に、つまり感情教育(sentimental education) に注ぐことができる
その教育はさまざまな種類の人間にお互いに知り合うチャンスを与え、自分たちと違う人たちをにせの人間と考える傾向に歯止めをかけることができるでしょう。この感情操作の目標は、「私たちの同類」とか「私たちのような人たち」という言葉の指示対象を広げること
われわれを拡張せよ。これがまさに、ローティが考える希望としての感情教育です。これがなければ残酷さの回避というものは機能しはじめない。その意味で、感情教育はリベラリズムにとって非常に重要で不可欠な要素 ロリータの小説の中で、「カスビームの床屋」の数行を書くのに一か月かかったと告白しています。また、ここは他のいくつかのイメージとともに、「この小説の 中枢神経なのだ」とも言っています。 私たちは誰であれ、それぞれに何らかの私的な「善」の構想を持っています。そこには正しくないものも多分に含まれうるでしょう。そして私たちは、そうした善の構想を追求するときには、ハンバートのような残酷さを無自覚のうちに行使してしまう
われわれ」を拡張するとは、第一には、残酷さのさなかにある被害者に共感することによって実践されるものでした。しかし同時に、加害者もまたわれわれと同類だと気づくことによっても、「われわれ」は拡張される
ローティの言う「連帯」とは「われわれの拡張」です。その上で、「同じ人間」だから連帯できるのではない。むしろ「われわれ」とはもっと小さなところからはじまる 連帯は「人間らしさ」という本質を基礎として成り立つのではなく、偶然性のかたまりとして私たちがたまたま持つようになった終極の語彙によって、感じられる
終極の語彙とは決して固定的なものではなく、他人の終極の語彙に触れたり、小説やルポルタージュを読んだりすることによって変わりうる、拡張しうるもの
連帯とは、伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではないとしだいに考えてゆく能力、私たちとはかなり違った人びとを「われわれ」の範囲のなかに包含されるものと考えてゆく能力 伝統的な哲学が自明視した本質主義を 棄却 した以上、人々の連帯は、まさにいまここにある小さな断片を手がかりにつくるしかないの Achieving Our Country(われわれの国を成しとげる)」であったのかが理解できます。これは当初、リベラルな思想の人々からは、愛国的で国家主義的だと非難されたタイトル。われわれアメリカの一員」という言い方をすることによって、道徳的に正しくないかもしれない人々の存在をあえてそこに含めることができる、そうすることで、怒れる多数派層(白人労働者)を「われわれ」に 包摂 できるかもしれないという可能性を考えていたのです。
彼らが〈左派〉に突きつけたのは、アメリカのリベラルが言う「われわれ」のなかに自分たちは入っていない、自分たちの苦痛や悲嘆には誰も耳を傾けない
多くの場合、少数派(マイノリティ)です。われわれは少数派だがたしかに存在している。しかしその存在が認められていない。承認が与えられておらず、いないものとして扱われている。それに対して異議申し立てをする。これがアイデンティティ・ポリティクスの基本構造
誰もが当事者であるはずの政治という場面において、アイデンティティに訴える論法はある意味で相手を「黙らせる」ものです。「俺のつらさはお前にはわからないだろう」といったことが言えてしまう。ローティは、この論法自体が持つある種の危うさこそが問題
論法そのものが持っている「会話を止める」という機能には注意しなければならないと彼は考えたのです。「お前にはわからない」という、ある意味で反駁不可能な主張をすることで、相手は二の句が継げなくなって